ケータイ小説とブログの意味

2011-03-08

電子書籍市場は立ち上がったというにはまだほど遠かったが、電子媒体の著作物をまとめた本が次々とベストセラーになった。「2ちゃんねる」でやりとりされたメッセージを集めた『電車男』の発行部数は100万部を超え、さらに柳の下の何匹めかのドジョウをねらって同様の本が次々と出版された。電子媒体だろうが何であろうが、著作活動があればその価値を見きわめ本にするのは編集者や出版社の仕事だ。ネット上に大量のテキストが現われれば、それを本にし、話題性のあるものがベストセラーになるのは当然だった。ただ、おおかたのこれまでの著作活動は一人の作家が孤独な空間でおこなったのに対し、大勢の人間がネット上の空間と時間を共有し文章を書き連ねている点がこうした著作物の新しい点だった。集団的著作とでも呼ぶべき創作活動が始まった。二〇〇四年ぐらいから日本でも急速に普及し始めたブログでの著作活動もそうしたものだった。ブログはまた「個人メディア」の可能性も切り開いた。ブログ以前のウェブも、個人が情報発信できる仕組みではあった。しかし、ウェブの発明者バーナーズーリーが、情報の受発信ともにしやすい仕組みとしてウェブを発案したにもかかわらず、かならずしもそうなっていないことに不満を漏らしていたように、発信はそれほどしやすくはなかった。けれどもブログは、文章やグラフィックを作成してウェブーサーバーに保存するだけで、誰でも簡単に不特定多数の人に向けて情報発信できる。その後、ソーシヤルーネットワークや動画共有サイト、ツイッターなどの登場で、ブログは少し影が薄くなり始めたが、個人のまとまった考えが容易に発信できるブログの持つ潜在的可能性が汲みつくされたようには思えない。これまでのメディアでは、メディア側か情報の発信者に依頼し、コンテンツが作成されて情報発信されるというプロセスをたどることが一般的だ。このプロセスでは、メディア側か必要と考える情報が作成されて発信される。メディア側か情報発信者の個性を活かし、思ってもみなかった可能性が引き出されることもあるが、かならずしも情報発信者自身の欲求にもとづくものではなかった。その結果、メディアの意向と情報発信者の個性や考えがあわないということも起こるし、情報発信者の持っていた可能性が埋もれてしまうこともあった。情報がまず発信されるというのは、従来のプロセスではありえなかった可能性を生み出す。頭のなかにいくらあってもアウトプットされなければ、それはこの世に存在しなかったことと同じだ。書きとめられて読まれることで可能性が生まれる。ブログのような個人メディアの登場で、とにもかくにも情報が発信され人びとの目に触れて評価されることになった。情報発信者の欲求がストレートなかたちで表現されるメディアは、情報発信の新たな可能性を切り開く。とはいえ、経済的に見返りが得られてそうした活動に専念できるようには日本ではまだほとんどなっていない。アメリカでは、ブログーメディアで生活している人びとが出てきているが、そのほとんどの収入は広告によるものだ。持続的な活動を続ける資金源を広告だけに頼るのは日本ではかなりむずかしいと思われる。有料メールマガジンなども出てきているが、個人メディアの収益化というのは少なくとも日本ではまだこれからの課題だ。こうした仕組みができれば、まだネットで情報発信していないプロの書き手もし始めるだろう。

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